おはようございます!
世に処するには、
どんな難事に出逢っても臆病ではいけない。
#勝海舟
2月11日
今日は、『建国記念の日』
“建国をしのび、国を愛する心を養う”国民の祝日
本日のお誕生日
トーマス・エジソンさん、小野ヤスシさん、鳩山由紀夫さん、益田由美さん、小畑健さん、緒川たまきさん、中西モナさん、ほりさん、出水麻衣さんなどなど
本日お誕生日の方々、おめでとうございます
㊗️㊗️㊗️㊗️㊗️
本名、トーマス・アルバ・エジソン。
7人兄弟の末っ子。
少年時代のトーマスは、異常なほどの知りたがり屋であった。
小学校に入学するも、教師と馬が合わずわずか3か月で中退した。
当時の逸話としては、算数の授業中には「1+1=2」と教えられても鵜呑みにすることができず、「1個の粘土と1個の粘土を合わせたら、大きな1個の粘土なのになぜ2個なの?」と質問したり、国語の授業中にも、「A(エー)はどうしてP(ピー)と呼ばないの?」と質問するといった具合で、授業中には事あるごとに「なぜ?」を連発し、先生を困らせていたという。
そのような好奇心は学校内にとどまらず、ガチョウの卵を自分で孵化させようとして、卵を抱き抱えてガチョウ小屋の中に何時間も座り込んだり、「なぜ物は燃えるのか」を知りたいと思い立ち、藁を燃やしていたところ、自宅の納屋を全焼させるという事件を起こしたこともあった。
これらが重なった挙句、最終的には担任の先生から「君の頭は腐っている」と吐き捨てられ、校長からも「ほかの生徒たちの迷惑になる」と言われ、入学からわずか3か月で退学することとなった。
学校教育に馴染めなかったトーマスは、自宅で独学することになった。トーマスが特に興味を示したのは、化学の実験であった。
科学実験に没頭した少年時代、人間が空を飛べるようになる薬を作ろうと試み、ヘリウムガスをヒントにして薬を自作し、友人に飲ませた。
エジソンの目論見としては、その薬を飲むと体内でガスが発生し、その浮力で人間が浮き上がるはずだったが、実際には薬を飲んだ友人が腹痛を起こしてもがき苦しみ、大騒ぎになった。
15歳のときには働いていた鉄道の駅で、まだ幼い駅長の息子が汽車にひかれそうになったのを助けたことがあった。
エジソンはそのお礼として駅長から電信の技術を教えてもらい、のちに彼が技術者としての人生を歩み始めるきっかけを与えてもらったという。
17歳の頃のエジソンはカナダの駅で夜間電信係として働いていたが、「何事もなければ、一晩中1時間おきに勤務に就いていることを示す信号を送るだけ」という退屈な仕事に飽きてしまい、時計を使って電信機が自動で電信を送る機械を発明した。
これがエジソンの最初の発明であった。
21歳のときに初めて特許を取得した。
それは電気投票記録機に関するもので、議会における賛成票と反対票の数を押しボタンで瞬時に集計し、投票にかかる時間を大幅に短縮できる画期的な発明となるはずだった。
しかし、売り込みを受けた連邦議会や各州議会は、投票中の交渉が可能である点呼投票の維持を選び、まったく採用されなかった。
エジソンはこの苦い経験を通して、いくら立派な発明でも人々が喜んでくれなければ何の意味もないことを痛感し、その後は周囲の人々の意見や要望をよく聞いてから発明に取り組むようになったという。
1877年に蓄音機の実用化(商品化)で名声を獲得。
ニュージャージー州にメンロパーク研究室を設立し、集まった人材を発明集団として機能させるべく、マネジメント面で辣腕を振るった。
研究所では電話、蓄音器、電気鉄道、鉱石分離装置、電灯照明などを矢継ぎ早に商品化した。
なかでも注力したのは白熱電球であり、数多い先行の白熱電球を実用的に改良した。
白熱電球の売り込みのための合弁会社を設立し、直流の電力を供給するシステムを確立させる。
晩年は鉱山経営などにも手を出すが失敗。高齢となって会社経営からは身を引くが、研究所にこもり死者との交信の実験(霊界との通信機の研究)を続けていた。
1931年、84歳でその生涯を終えた。
生涯におよそ1,300もの発明と技術革新を行った。
本日が皆様にとって、人生最幸の一日になりますように😍
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