もんち 人生迷走中

もんちです 毎朝、その日の名言と、その日、お誕生日の有名人の紹介 などなど 日々の出来事も書きます 宜しくお願い致します

1月23日 毎日が記念日

おはようございます!

 


物語は

ここから始まるのだ。

 

#手塚治虫

 

 

 

1月23日

 


今日は、『ワンツースリーの日』

 


「123」で「ワンツースリー」とよむ語呂合せ

人生に対してジャンプする気持ちを持とうという日

 


本日のお誕生日

 


湯川秀樹さん、ジャイアント馬場さん、千葉真一さん、丸山和也さん、でんでんさん、小日向文世さん、葉加瀬太郎さん、篠原信一さん、川村ゆきえさんなどなど

 


もんち的には、東洋の巨人のジャイアント馬場さんのお誕生日

 


本日お誕生日の方々、おめでとうございます

㊗️㊗️㊗️㊗️㊗️

 

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ジャイアント馬場

 


本名、馬場正平

 


身長209cm、体重135kg。

リングネームは、初渡米武者修行中の1961年、ニューヨークのプロモーターが「ババ・ザ・ジャイアント(Baba the Giant)」と命名したことに由来する。

 


1938年、新潟県三条市に八百屋を営む父・馬場一雄、母・ミツの間に次男として生まれる。

 


小学校入学後、野球を始める。

入学までは体格は小さいほうで、入学時の集合写真でも一番小さい児童のグループに収まっていたが、3年生頃から急速に大きくなりはじめ、4・5年生の頃には既に身長が175cmほどあり、地元の少年野球団「若鮎クラブ」ではエースを務めた。

 


1953年、高校入学後、身長はさらに伸び、190cmにもなっていた。

この頃は足も尋常でない大きさになり、自分に合うスパイクがないという理由で、当初は硬式野球部入部を断念し、一旦、美術部に入部した。

その後、特注のスパイクを与えられることとなり、念願の硬式野球部に入部。

エースとしての活躍はめざましく練習試合ながらも18奪三振を記録するなどした。

 


読売ジャイアンツのスカウト・源川英治に誘われ、高校を2年次で中退し、1955年に巨人に投手として入団する。

背番号は59。

 


1957年、視力の急激な低下に見舞われる。

診察の結果、「脳腫瘍」と判断され、同年に開頭手術を受けた。

 


1960年、巨人から自由契約になり、大洋のキャンプにテスト生として参加し、採用内定を受けていた。

その時に宿舎の風呂場で転倒、身体ごとガラス戸に突っ込み、左肘に17針を縫う外傷を受傷し、一時期、左手の第三指および第四指の関節が伸展出来ない状態が持続したため、プロ野球選手継続を断念した。

 


スポーツを続けたいという一心で、野球選手の継続を断念した後も、自宅アパートの近くにあったボクシングジムでトレーニングを行っていた。

 


力道山日本プロレスへの入門を直訴。

力道山からヒンズースクワット100回を命じられるが難なくこなし、その場で入門が決まる。

 


1961年には、強豪外国人レスラー連との試合が組まれ、いずれも勝利することは出来なかったものの、試合内容を評価した力道山により渡米しての武者修行を命ぜられ、アメリカに渡る。

 


短期間でメジャーなテリトリーにおけるメインエベンターに成長し、数々のタイトルに挑戦した。アメリカ時代のリングネームは、ロサンゼルスではショーヘイ・ビッグ・ババ、ニューヨークではババ・ザ・ジャイアント。

 


1963年、再びアメリカに遠征。

同年12月に力道山が死去し、遠征中のアメリカから帰国する。

帰国の際にグレート東郷から、「力道山死後の日プロは先行きが怪しい、高額の年俸(当時の額で1億円弱)を保障するのでアメリカに定住するように」と勧められたが、金銭の問題ではないからと断り帰国している。

 


1964年には、アメリカでNWA、WWWFWWAの当時の三大世界タイトルに連続挑戦した。これは世界の強豪レスラーの誰しも果たせなかった破天荒な大金字塔的偉業であり、馬場の世界的名声の基盤を形成した。

 


同年に凱旋帰国し、豊登とのタッグで第11代アジアタッグ王座を獲得。

力道山亡き後の日プロを馬場・豊登の二枚看板で支えることになった。

 


1965年には、力道山以来、エースの象徴とされたインターナショナル・ヘビー級王座を獲得した。

 


1979年夢のオールスター戦での猪木と組んでのブッチャー&シン戦、1980年の鶴田と組んでのファンクスとの世界最強タッグ決定リーグ戦終戦、1981年のガニアとのダブルタイトル戦、そして1982年のハンセンとのPWF防衛戦で、4年連続でプロレス大賞のベストバウトを受賞している。

 


生涯で通算5769試合を行った。

 


1999年1月31日、入院先で大腸癌の肝転移による肝不全のため61歳で死去。

 


元子夫人の意向により外部には馬場の病状やその生命が危ないことを一切漏らしておらず、当時全日本の取締役に就任していたジャンボ鶴田三沢光晴、全日本の重鎮だった百田義浩ジョー樋口にさえも知らせていなかった。

 


16文キックが懐かしいですね。

 


あっぽー。

 

 

 

本日が皆様にとって、人生最幸の一日になりますように😍

 

 

 

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#1月23日