おはようございます!
人生とは骨折である
折れた所が強くなる
6月18日
今日は、『おにぎりの日』
日本最古の「おにぎりの化石」が発見された石川県中能登町が制定
国際寿司の日でもある
本日のお誕生日
ポール・マッカートニーさん、三沢光晴さん、あいだももさん、後藤輝基さん、細川直美さん、後藤理沙さん、谷村美月さん、岡本玲さんなどなど
本日お誕生日の方々、おめでとうございます
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三沢は子供のころから体が大きく、小学校時代に越谷市が開催した走り幅跳びの大会で優勝するなど、運動神経が良かった。
中学校では器械体操部に入部。
三沢曰く、器械体操を経験したことがプロレスの飛び技に生きているという。
中学校を卒業してすぐにプロレスラーになるつもりだったが、担任と母親にレスリングの強い高校へ進学して基礎を学んでからの方がよいと説得され、進学した。
三沢は3年の時に国体で優勝するなど活躍したが、本人にとってレスリングはプロレスラーになるための手段に過ぎず、競技自体を好きになることはなかった。
高校2年の時、三沢は寮を抜け出して全日本プロレスの事務所を訪れ、入門を志願したことがある。
この時はジャンボ鶴田に高校を卒業してから来るよう諭され、断念している。
高校卒業後の1981年に全日本プロレスに入団。
メキシコで修行後、日本に帰り『2代目タイガーマスク』として活躍。
しかし、1990年、三沢は試合中にタイガーマスクのマスクを脱ぎ、三沢光晴に戻ると同時にポスト天龍に名乗りを挙げた。
三沢は川田利明、小橋健太らと共に超世代軍を結成。
同時に三沢は全日本プロレスの実質的なエースとなった。
三沢は1992年から1999年にかけて三冠統一ヘビー級王座を5度獲得、21度防衛。
1994年には全日本プロレスの象徴的存在であったジャイアント馬場からタッグマッチでフォール勝ちし、名実ともに同団体を代表するレスラーとなった。
6月13日、三沢はGHCタッグ選手権試合に挑戦者として出場。
試合中、齋藤彰俊の急角度バックドロップを受けた後、意識不明・心肺停止状態に陥った。
リング上で救急蘇生措置が施された後、救急車で搬送されたが、午後10時10分に死亡が確認された。
46歳没。
三沢が意識を失う前にレフェリーが「動けるか?」と問い掛けた際に、「だめだ、動けねぇ」と応じたのが最後の言葉となった。
献花式「三沢光晴お別れ会DEPARTURE」が開催された時には、プロレス関係者やファンなど約26,000人が参列した。
ちょうど今年で10年目。
もんちの歳に亡くなったのを知って、ショックを受けてます。
本日が皆様にとって、人生最幸の一日になりますように😍
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