もんちの『今日は人生最幸の日』

もんちです 毎朝、その日の名言と、その日、お誕生日の有名人の紹介 などなど 日々の出来事も書きます 宜しくお願い致します

1月22日 今日を最幸の一日に

おはようございます!

 


なぜ逃げるのか。

打たれて命を取られるのか。

打たれたからって命を取られるわけないんだ。

逃げるな。

 

#長嶋茂雄

 


1月22日

 


今日は、『カレーライスの日』

 


1982年のこの日、全国学校栄養士協議会で1月22日の給食のメニューをカレーにすることに決められた

 


本日のお誕生日

 


高須克弥さん、星野仙一さん、たかの友梨さん、岡部マリさん、山田雅人さん、稲森いずみさん、中田英寿さんなどなど

 


もんち的には、闘将の星野仙一さんのお誕生日

 


本日お誕生日の方々、おめでとうございます

㊗️㊗️㊗️㊗️㊗️

 

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星野仙一

 


岡山県倉敷市出身。

 


高校進学の時に、高等学校の野球部部長から「君の力で、倉商を甲子園に連れていってくれ」と口説かれて進学した。

しかし星野が入学して以降の倉敷商はどんどんと力を付け、志望していた倉敷工以上の成績を残すようになった。

 


星野が3年生の時に、甲子園を目指して、1964年東中国大会決勝まで進んだが、鳥取県の米子南高校に敗れ、甲子園出場は叶わなかった。

 


明治大学進学後、野球部では1年生から一軍メンバーとして活躍し、東京六大学リーグで通算63試合に登板し23勝24敗、防御率1.91、199奪三振

1968年度主将。

2年生秋には対立教大学戦でノーヒットノーランを記録した。

 


大学時代の監督からは「命懸けでいけ」、「魂を込めろ」、「誠を持て」の3つの教えを徹底的に仕込まれたという。

 


1968年のプロ野球ドラフト会議で、水原茂が監督就任したばかりの中日ドラゴンズから1位指名を受け入団。

自身は阪神ファンであったが阪神明治大学の仲が悪く阪神から指名された場合、社会人野球に行くこととなっていた。

少年時代から阪神タイガース投手の村山実に憧れており、村山と同じ背番号11を着けたかったが空いていなかったため、代わりに数字を倍にした22を希望した。

 


1971年に肘を痛めてから速球は影を潜めたが、変化球を駆使し、先発・リリーフとして活躍、チーム事情もあり、14年間の選手生活の中で、先発中心で起用されたのは5年ほどしかない。

 


現役通算で8回の二ケタ勝利、2回の二ケタセーブをマークしている。

1974年には初代最多セーブのタイトルと沢村賞を獲得するなど、巨人のV10を阻みチーム20年ぶり、2度目のセントラル・リーグ優勝に大きく貢献。

優勝を決めた試合では、胴上げ投手となった。

 


珍プレーとして有名な宇野ヘディング事件が起きた時にマウンドに立っていたのも星野だった。

 


1977年は自身最多の18勝を挙げる。

 


1981年からは投手コーチ補佐を兼任。1982年、自身2度目のリーグ優勝を機に現役引退を決意。

 


最後のファン感謝デーで「長い間ありがとうございました。私はついに燃え尽きました」と挨拶した。

 


1983年から1986年までNHKで野球解説者、日刊スポーツ、Numberの野球評論家を務めた。

 


1986年、途中で休養した山内一弘の後任として中日の監督に就任。

背番号は「77」。

 


球団からの監督要請を受ける時、「召集令状がきた」と感じたといい、「笑ってください」と注文をつけてきたカメラマンに対し「これから戦場へ行くのだ。笑えるか」と真剣に怒ったというエピソードが存在する。

 


監督就任後は、ロッテから落合博満を4対1のトレードで獲得するなど大胆な補強を行い、ドラフトでも1986年に近藤真一、1987年に立浪和義といった即戦力に成り得る高校3年生を他球団との競合の末1位で獲得。

 


かなり厳しかったらしく、選手を怒鳴りプレッシャーをかけ、「俺のプレッシャーに負けるような奴が、ここぞの時に踏ん張れるか、そんな奴は要らねぇ」と述べている。

 


退場や乱闘騒ぎも多く、巨人と両軍入り乱れての大乱闘に発展した時、巨人監督の王貞治に対し拳を突き出し挑発ともとれるポーズをとり、喧嘩を売ったと批判された。

王に「我々が主役になってはダメだ」と諭されたが、「やられたらやり返すのが当たり前じゃないですか」と言い返した。

 


著書の中で「私が怒る時は、常に本気で怒る。叱るときは全身で叱る。

自らの本心を隠したり抑えたりできないのは、私の長所であり、また、短所でもあるが、少なくともスポーツマンの世界で発揚する理想だと考えている。

時には怒鳴り上げ、壁を蹴り、灰皿を投げ付けて怒る。

私くらい怒っていることが周囲に丸分かりの監督もいないだろう」と記している。

 


かねてから星野には高血圧症という持病があり、2002年のペナント開幕戦の対巨人戦では試合後に体調を崩しベンチ裏で記者を待たせ横になっていたことがあったり、2003年はスタッフが覚えているだけで試合中4回倒れており、その都度、ヘッドコーチが敵陣にバレないよう指揮を執っていた。

 


2016年に急性膵炎を発症した際に膵臓がんが発覚したが、星野の意向で病については一切公にされなかった。

この時点で肺に転移しており、手術はせずに抗癌剤治療を受けた。

2017年に自身の「野球殿堂入りを祝う会」に出席していたが、その後体調が悪化し、年が明けた2018年に死去した。

満70歳没。

 


上司にしたい人によく選ばれてましたね。

 

 

 

本日が皆様にとって、人生最幸の一日になりますように😍

 

 

 

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#1月22日