おはようございます!
いよいよ励み、
いよいよ求め、
労苦し、
時を待つことを学ぶのだ。
12月29日
今日は、『シャンソンの日』
1990年のこの日、銀座のシャンソン喫茶の老舗「銀巴里」が閉店した
本日のお誕生日
桜金造さん、岸本加世子さん、越前屋俵太さん、鶴見慎吾さん、加勢大周さん、押切もえさん、荒川静香さん、錦織圭さんなどなど
もんち的には、J.BOYの浜田省吾さんのお誕生日
本日お誕生日の方々、おめでとうございます
㊗️㊗️㊗️㊗️㊗️
父の転勤のため、18歳までに20回近く引っ越しをした。
こうした経験が自身の人間形成に大きな影響を与えたと述懐している。
9歳のときにラジオから流れるビートルズの日本デビュー曲「プリーズ・プリーズ・ミー」を聴く。
その頃に、姉の誕生日プレゼントだったギターを取り上げ、ギター演奏を始める。
県内有数の進学校に入学。
しかし、不良の溜まり場だった野球部に入部。
野球部を辞めた後はフォークソング・クラブ、新聞部に所属する。
1浪して神奈川大学法学部に入学する。
華やかなキャンパス・ライフを夢見て上京するものの、まだ学生運動が盛んな時代で、大学はロックアウトされたり、ストライキで休校されることが多く、こんな大変な時に親からお金を送ってもらう意味が無いと次第に感じ始める。
同じように上京して大学生活を送っていた町支寛二らと再会し、一緒にバンド活動を始める。
翌年、音楽活動にのめり込み大学中退。
広島に戻り、音楽仲間と共にロックバンド「愛奴」を結成。
さらに翌年、再び上京し、吉田拓郎の春と秋の全国ツアーのバック・バンドに愛奴として参加。
拓郎のバックバンドとして何度か『ミュージック・フェア』などテレビにも出演した。
1975年に愛奴としてアルバム『愛奴』とシングル「二人の夏」でレコード・デビュー。
1976年にアルバム『生まれたところを遠く離れて』とシングル「路地裏の少年」でソロデビュー。
ロック志向の自身にとっては不本意ながら、予算の都合上、生ギター1本のスタイルで全国ライブ巡業を開始。
直後に矢沢永吉のフィルムコンサートの前座を務めた。
また、アイドル歌手時代の竹内まりやとジョイント・コンサートも行っている。
1979年、日清カップヌードルのCMソングとして書いたシングル「風を感じて」が初のスマッシュ・ヒット(オリコン最高25位、売上10万枚)した。
このヒットを機会に、自身のやりたい音楽を表現することを決意する。
なお、この関係で『夜のヒットスタジオ』や、日清食品がスポンサーだった『ヤングおー!おー!』の公開放送に出演している。
1980年、ツアー先の沖縄で、母が脳閉塞で倒れ危篤状態との知らせを受ける。
なんとか一命は取り留めたものの半身不随を患い、このときの気持ちを「悲しみは雪のように」という楽曲に込めている。
1983年に独立。
長らく浜田の個人事務所であったが、1990年代以降は尾崎豊(所属は約1年程で個人事務所アイソトープを設立し独立)、三浦知良、スピッツ、斉藤和義らが所属する。
1986年に発売された2枚組アルバム『J.BOY』がソロデビュー10年目にして初のオリコン・アルバムチャート第1位(4週連続)を獲得。
1992年にテレビドラマ「愛という名のもとに」の主題歌として発売されたシングル「悲しみは雪のように」が、初のオリコン・シングルチャート第1位(8週連続、通算10週)を獲得。
累計売上170万枚のビッグセールスを記録した。
同時に、過去にリリースされたアルバムが多数チャートインするなど、空前の浜省ブームとなる。
しかし、本人はこの時期に鬱状態になり、メディアに全く出てこなかった。
トレードマークはサングラス。
人前ではまったく外さないことでも知られる。
サングラスをかけだした由縁は、自身の好きなボブ・ディランやスティーヴィー・ワンダー、ジョン・レノンらがかけていたのを真似したためらしい。
公式な写真や映像では、サングラスを外して素顔を確認できるものは一切ない。
サングラスを外していても向こう側を向いていたり、顔に影が当たっていたり、目を閉じていたりするため、素顔を覗くことはできない。
時々、サングラスをかけたまま顔を洗ってしまうこともあるという。
もんちも昔はよく聞いてましたし、今でもカラオケでは歌います。
本日が皆様にとって、人生最幸の一日になりますように😍
#名言
#誕生日
#浜田省吾
#12月29日