おはようございます!
悪いことをしたら、
それを正さなければならない
それなしには安らぎを手に入れることは
できないから
1月17日
今日は、『防災とボランティアの日』
1995年1月17日午前5時46分、淡路島北端を震源とする兵庫県南部地震が発生した
本日のお誕生日
アル・カポネさん、村田英雄さん、モハメド・アリさん、坂本龍一さん、泰葉さん、ジム・キャリーさん、森川ジョージさん、工藤夕貴さん、平井堅さん、りょうさん、金子貴俊さんなどなど
本日お誕生日の方々、おめでとうございます
㊗️㊗️㊗️㊗️㊗️
本名、三浦百恵(旧姓 山口)。
1972年、オーディション番組『スター誕生!』で、牧葉ユミの「回転木馬」を歌い、準優勝、20社から指名を受ける。
1973年、映画『としごろ』に出演し、同名の曲で歌手としてもデビュー。
森昌子・桜田淳子と共に「花の中三トリオ」と呼ばれた。デビューのキャッチコピーは「大きなソニー、大きな新人」。
デビュー曲の「としごろ」は、スタッフの期待以下のセールスに止まったため、第二弾の「青い果実」ではイメージチェンジを図り、大胆な歌詞を歌わせる路線を取った。
これは「青い性路線」と呼ばれるようになり、それは1974年の「ひと夏の経験」の大ヒットで大きく花咲くこととなった。
年端のいかない少女が性行為を連想させるような際どい内容を歌うという、この「青い性」路線で百恵は絶大な人気を獲得することになる。
百恵は年齢が低くビジュアル面では純朴な少女というイメージだった。
歌とビジュアルのギャップ、それに伴うある種の背徳感が、百恵の人気を独特なものにしていったと言われる。
1974年には文芸作品の名作『伊豆の踊子』に主演し、演技でも評価を得る。
この映画で共演した相手役の三浦友和とはグリコプリッツのCMでこの年の夏に共演済であった。
三浦とはその後もテレビドラマやCMでも共演し、共に絶大な人気を博し、二人は「ゴールデンコンビ」と呼ばれた。
テレビドラマでの初レギュラー出演は1973年スタート、大映テレビ制作TBS系の「顔で笑って」。
この作品で宇津井健との親子役が始まり、以降宇津井健を公私共に「お父さん」と慕い、後の実際の結婚の際に仲人をお願いしている。
1974年からはテレビドラマ赤いシリーズに出演、1作目「赤い迷路」続く「赤い疑惑」「赤い運命」でもやはり宇津井健との親子役。
「赤い疑惑」「赤い衝撃」では三浦友和と共演。高い人気を集め、シリーズは6年にも及び、百恵のレギュラー出演作品は「赤い絆」引退記念作品の「赤い死線」まで6作品にもなった人気ドラマとなる。
1978年の『第29回NHK紅白歌合戦』では紅組トリを務めた。
白組の沢田研二と共にポップスでのトリは初。
また、10代の歌手が紅白のトリとなったのも百恵が初。
その最年少記録は破られていない。
1979年、大阪厚生年金会館のリサイタルで「私が好きな人は、三浦友和さんです」と、三浦との恋人宣言を突如発表する。
その後三浦も記者会見で「結婚を前提にして付き合っています」と語った。
そして、翌1980年には三浦との婚約発表と同時に、「我儘な…生き方を私は選びました。(中略)お仕事は全面的に、引退させて頂きます」と芸能界引退を公表する。
1980年、日本武道館で開催されたファイナルコンサートでは、ファンに対して「私のわがまま、許してくれてありがとう。幸せになります」とメッセージを言い残し、そして最後の歌唱曲となった「さよならの向う側」で堪えきれずに、涙の絶唱となった。
歌唱終了後、ファンに深々と一礼をした百恵は、マイクをステージの中央に置いたまま、静かに舞台裏へと歩みながら去っていった。
引退時は21歳で、芸能人としての活動はわずか7年半程だった。
引退までにシングルは31作の累計で1630万枚、LPは45作の累計で434万枚を売り上げ、1970年代最もレコードを売り上げた歌手だった。
活動期間が短かったのに、日本中にファンが多い人でしたね。
もんちはカラオケでよく、サヨナラの向こう側を歌いますよ。
本日が皆様にとって、人生最幸の一日になりますように😍
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