おはようございます!
希望は風雨の夜に
早くも朝紅をさす。
#ゲーテ
12月18日
今日は、『国連加盟記念日』
1956年のこの日、日本の国際連合加盟案が全会一致で可決され、国連加盟が承認された
本日のお誕生日
前田光世さん、スティーブン・スピルバーグさん、布施明さん、伍代夏子さん、ブラッド・ピットさん、江角マキコさん、藤本敏史さん、武田真治さん、レイザーラモンさん、小雪さん、綾香さん、安藤美姫さん、
本日お誕生日の方々、おめでとうございます
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1895年、上京し、早稲田高校に入学する。
入学後は相撲や野球で名を馳せたが、現・早稲田大学に柔道場が新設されたことをきっかけに柔道を始め、1897年には講道館に入門し、柔道に打ち込む。
入門してからは講道館四天王の1人である横山作次郎などに鍛えられ、めきめきと頭角をあらわし、昇段審査(初段)の時には嘉納治五郎講道館初代館長の命により前田のみ15人抜きを命ぜられ、達成する。
4段位にあった1904年、柔道使節の一員として渡米。
渡米にあたって前田は後に首相になった衆議院議員犬養毅から日本刀「長船」を贈られた。
渡米後は滞在費稼ぎや柔道普及のために異種格闘技戦を断行、対戦相手を求めてアメリカ中を周りボクサーやプロレスラー、拳法家などと戦う。
なおその頃に、自分の名前を栄世(ひでよ)から光世に改名している。
1000ドルという賞金を餌に再びアメリカ全土を周り、挑戦してくるボクサーなどを片っ端から退ける。
アトランタでは世界一の力持ちと恐れられたブッチャー・ボーイさえも破っている。
その後はメキシコやヨーロッパなど世界各地で異種格闘技戦を行い、ブラジルに辿り着く。
この間2000勝以上し、柔道衣着用の試合では終に無敗であった。
イベリア半島に滞在している際、前田はコンデ・コマのリングネームを用いるようになった。
コンデはスペイン語で伯爵を意味する。
コンデ・コマのコマは前田がいつも金に困っているのを皮肉って日本語の「困る」から取ったとも言われている。
1917年に当時14歳のカルロス・グレイシーが、前田による実演をみて、前田から柔道を習うことにした。
当時前田の柔道はブラジルで嘉納柔術として知られていた。
前田はカルロスを弟子に迎え、カルロスはすぐに頭角を現した。
カルロスはわずか17歳にして兄弟のオズバルド、ガストン、そしてジョルジの師となった。
当時はまだ末弟のエリオは柔道の練習をするには幼すぎ、また健康上の理由で医師に練習に参加することを禁じられてもいた。
しかし後にエリオは柔道を習い、健康上の問題を克服してカルロスと共にグレイシー柔術を創設するに至った。
1941年、ベレンで死亡。
ブラジルの雑誌によれば、最期に残した言葉は「日本の水が飲みたい。日本に帰りたい」であったという。
死後、講道館より七段を贈呈され、また弘前公園には前田の功績をたたえた石碑が建てられた。
死後70年近く経った今でも、史上最強の柔道家として前田光世を推す評論家は少なくない。
小説家の夢枕獏が自著である「餓狼伝」のあとがきにおいて、とあるグレイシー柔術家(名前は伏せられていた)に「コンデ・コマは武術の奥義を海外に持ち出してしまったため、日本から来た武術家に暗殺されたと言われているが本当か?」と尋ねられた、というエピソードを紹介している。
漫画、『修羅の門』の第4部では、コマに習った業をもとにあみだした『グラシエーロ柔術』が登場する。また、物語の核心にも係っている。
身長は164cm 体重は70kgと、小柄な体型ながら世界の強者を倒していくのは、本当に漫画の様な話で、男して憧れの存在ですね。
本日が皆様にとって、人生最幸の一日になりますように😍
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