おはようございます!
太陽の光と雲ひとつない青空があって、
それを眺めていられるかぎり、
どうして悲しくなれるというの?
10月6日
今日は、『国際協力の日』
1954年、日本が、初めて援助国としての国際協力として、途上国への技術協力のための国際組織に加盟した
今日のお誕生日
西川ヘレンさん、横山たかしさん、マッスル木村さん、松田美由紀さん、遠野舞子さん、岡元あつこさん、福島善成さん、堀北真希さんなどなど
もんち的には、ボディビルダーのマッスル木村さんのお誕生日
本日お誕生日の方々、おめでとうございます
㊗️㊗️㊗️㊗️㊗️
マッスル木村
本名、木村克己
子供の頃から「人は何の為に生まれてくるのか。僕は、せっかく生まれてきたのだから、何か目標を見つけて、自分の限界まで挑みたい。そうしないと時間がもったいない」という観念を持っており、その観念は成長するにつれて、どんどん強くなっていった。
北村の口癖は「僕には時間がない」。
それゆえに様々な分野にチャレンジし、常軌を逸しているとも言える努力量で真剣に取り組んだ。
進学校に在学していた高校生時代は自転車に熱中していた。
「大学には進学せず、競輪選手になりたい」と思い、部屋中を自転車雑誌や自転車のパーツで埋め尽くし、北村独自のトレーニングを毎日実施していた。
その後、競輪選手を紹介され、一緒にトラックで走る機会を得たが、競輪選手の驚異的な走行技術を目のあたりにして、「僕は足元にも及ばない」と絶望し、悩んだ末に競輪選手の夢を諦める。
そしてボクシングを行うが、平和を愛する性格が災いして、ボクシングも諦める事になる。
東大に入学後、東京大学運動会ボディビル&ウェイトリフティング部の先輩と出会い、薦められるままに関東学生選手権に出場する。
しかし、筋肉質とはいえプロボクサーを目指していた身長173cm、体重55kg程度の身体では、まるで大人の中に子供が混じっているような状態で、恥ずかしさと情けなさで泣きそうだったという。
その後、ボディビルに対する熱中ぶりは常軌を逸したもので、本人も「筋肉を大きくする為ならば何でもやった」と自負し、奇行とも思える行為さえも実施した。
普通の食事以外に、卵を20-30個、牛乳を2-3リットル、さらに鯖の缶詰を3缶、加えてプロテインの粉末300gを毎日摂取した。
また、このような食事を消化吸収するために、消化剤を大量に摂取した。
その結果、ボディビルを始めて僅か10か月で40kgの体重増加に成功する。
凄まじい執念が実り、わずか1年程で96kgまで増量、2年後の関東学生選手権を圧倒的実力で優勝。
雪辱は果たしたが、既にボディビルへと傾倒していた彼は、社会人大会へとステップアップしていく。
凄いエピソードの一つに、実業団選手権に優勝した直後、急遽アジア選手権のオファーが入る。
チャンスとばかりに二つ返事で了承したはいいが、あと4日しかなく、コンテスト直後で身体は疲弊しきっている状態であった。「この状態で出ても結果は知れているので、少し好きな物を食べて筋肉に張りを持たせよう」と考え、食べ始めたが最後、コンテスト直後の食欲は凄まじく、コントロールできないまま食べ続けた結果、わずか2日で85kgから98kgへ太ってしまう。
電車を乗り継いで山奥まで行き、そこから自宅までの100kmマラソンに挑戦する。途中で足の爪がはがれ、シューズの中が血で溢れるほどだったが、気絶することなく計120kmを15時間かけて走り抜き、14kgの減量に成功。アジア選手権、ライトヘビー級のタイトルを手にする。
体重は最大で115kg程度までになったこともあり、日本人ボディビルダーとしては前例がないほどのサイズを誇り、あまりの筋肉の大きさにドーピングを疑われることが度々あった。
その後、テレビ出演が増え、さんまのナンでもダービーではレギュラー出演を果たし、「ボディビルダーの筋肉は見せかけで使えない」という風潮を打破すべく番組内で大活躍した。
スプラッター刃牙の作者の板垣恵介さんも筋肉を参考にする為に、会いにあっていたらしい。
2000年8月3日、ボディビルの世界選手権に参加するべく、脂肪を極限まで落とすために20kgの急な減量を行った結果、異常な低血糖状態となり、急性心不全を引き起こし死亡した。
39歳没。
壮絶な人生だったと思います。
一つのことに徹底してこだわる姿、ある意味オタクだったんでしょうね。
ご冥福をお祈り致します。
本日が皆様にとって、人生最幸の一日になりますように😍
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