おはようございます!
私は失敗したことがない。
ただ、1万通りの、
うまく行かない方法を
見つけただけだ。
10月4日
今日は、『イワシの日』
多獲性魚有効利用検討会が1985年に制定
「い(1)わ(0)し(4)」の語呂合せ
本日のお誕生日
北島三郎さん、スーザン・サランドンさん、辻仁成さん、上田竜也さん、前田愛さん、八田亜矢子さんなどなど
もんち的には、ボクシングの名トレーナーのエディ・タウンゼントさんのお誕生日
本日お誕生日の方々、おめでとうございます
㊗️㊗️㊗️㊗️㊗️
本名、エドワード・タウンゼント
弁護士であるアイルランド系アメリカ人の父と、山口県出身の日本人の母との間に、ハワイで生まれる。
11歳からボクシングを始め、12勝無敗のハードパンチャーとして活躍。
1932年にハワイのアマチュア・フェザー級チャンピオンになった。
引退後、1962年、ハワイ巡業で知り合った力道山に招請されて来日。
「日本からヘビー級のボクサーをつくる」ため、力道山が創設したリキジムでトレーナーを務めるが、翌1963年に力道山が暴漢に刺されて急死してしまう。
その後、ハワイ時代から旧知の仲だった日系三世のポール・タケシ・藤井(リングネーム:藤猛)が偶然訪れ、トレーナーとして1967年に世界チャンピオンへと導いたことで注目される存在となる。
以降、6人の世界チャンピオンと赤井英和、カシアス内藤らの名ボクサーを育てる。
また、その実績のみならず人間性や指導方法も高く評価され、「名トレーナー」として日本のボクシング関係者、ボクシングファンから尊敬される様になった。
彼の最後の弟子の一人である井岡弘樹は、14歳の時から一から育て上げた。
エディは井岡のことを「ボーイ」と呼び、ジムの2階で寝食を共にして、実の息子のように可愛がった。
1987年に行われたWBC世界ミニマム級王座決定戦で、井岡を世界チャンピオンへと導く。
しかしこの頃から、エディは直腸がんに蝕まれており、車椅子で生活しながら指導するようになる。
1988年、大阪城ホールで行われた井岡弘樹の初防衛戦では、どうしても井岡の試合を見守りたいと切望し、入院中の病院から担架で試合会場入りしたが、試合開始直前に意識不明の危篤状態に陥り病院へ引き返した。
井岡が挑戦者の李を12回TKOで退けた知らせを病院で聞くと、右手でVサインを掲げた後に静かに息を引き取った。
柴田国明に対し、リーチが長い相手の懐に入るテクニックを教える際、「シバタ、人の家に入る時は、お辞儀しないと入れてくれないのよ。だから、お辞儀して入れてください、入れてください、とするのよ」と独特の言い回しでウィービングして相手の懐に入る方法を教えた。
勝てる可能性がないと判断すると、タオルを投入するのは誰よりも早かったと言われている。
「ボクシング辞めたアトの人生の方が長いのヨ。誰がそのボクサーの面倒ヲ見てくれるの?無事に家に帰シテあげるのもワタシの仕事ネ」「勝った時には友達おおぜいイッパイ出来るからワタシいなくてもいいの。誰が負けたボクサー励ますの?ワタシ負けたボクサーの味方ネ」と言い、勝ったボクサーの祝賀会には一切参加せず、負けた選手にはずっと付いて励ました。
ジムに初めて来た時、先輩達が竹刀で選手を叩いて指導している光景を見て「リングの上で叩かれて、ジムに帰って来てまた叩かれるのですか?ワタシはハートのラブで選手を育てるネ」と力道山に進言して譲らず、エディの指導方法を認めさせた。
スタンディング・アンド・ファイト(立って、そして闘いなさい)
本当に選手を愛し、優しく、父親の様な存在で、名トレーナーだった様ですね。
本日が皆様にとって、人生最幸の一日になりますように😍
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