もんちの『今日は人生最幸の日』

もんちです 毎朝、その日の名言と、その日、お誕生日の有名人の紹介 などなど 日々の出来事も書きます 宜しくお願い致します

11月15日 今日を最幸の一日に

おはようございます!

 


終始一貫、

勇気勇気で押し切るのだ。

 


 

#中村天風

 

 

 

11月15日

 


今日は、『七五三の日』

 


男の子は数えで3歳と5歳、女の子は3歳と7歳の年に、成長を祝って社寺に参詣する

 


本日のお誕生日

 


坂本龍馬さん、加藤みどりさん、神田川俊郎さん、三宅正治さん、平井理央さん、福田悠太さん、峯岸みなみさんなどなど

 


もんち的には、海援隊坂本龍馬さんのお誕生日

 


本日お誕生日の方々、おめでとうございます

㊗️㊗️㊗️㊗️㊗️

 

 

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坂本龍馬

 


諱は直陰(なおかげ)、のちに直柔(なおなり)。通称は龍馬(竜馬)

 

 

 

龍馬が生まれる前の晩に、母親が龍が天を飛ぶ夢を見てそれにちなんで龍馬と名づけられた。

幼い龍馬の背には一塊の怪毛があったという伝説がある。

 

 

 

土佐藩郷士(下級武士・足軽)坂本家に父・八平、母・幸の間の二男として生まれた。兄(権平)と3人の姉(千鶴、栄、乙女)がいた。

 


坂本家は質屋、酒造業、呉服商を営む豪商才谷屋の分家で、第六代・直益のときに長男・直海が藩から郷士御用人に召し出されて坂本家を興した。

 


土佐藩の武士階級には上士と下士があり、商家出身の坂本家は下士郷士)だったが、分家の際に才谷屋から多額の財産を分与されており、非常に裕福な家庭だった。

 


幼年の龍馬は12 - 13歳ごろまで寝小便癖があったとされる。

気弱な少年であり、漢学の楠山塾に入学したものの、いじめに遭い抜刀騒ぎを起こして退塾させられてしまったといわれている。

以降、三姉の乙女が武芸や学問を教えたという。

 


龍馬の人格形成において多大な影響を与えたのは、父・八平の後妻・伊与の前夫の実家である下田屋(川島家)といわれている。

龍馬は姉・乙女とともに川島家をたびたび訪れては、長崎や下関からの珍しい土産話などを聞いたとされる。

また、世界地図や数々の輸入品を見て外の世界への憧れを高めたともいわれている。

 


嘉永6年(1853年)、龍馬は剣術修行のための1年間の江戸自費遊学を藩に願い出て許された。

 


北辰一刀流桶町千葉道場の門人となる。

道場主の千葉定吉北辰一刀流創始者千葉周作の弟で、その道場は「小桶町千葉」として知られており、道場には定吉のほかに長男・重太郎と3人の娘(そのうち一人は龍馬の婚約者と言われるさな子)がいた。

 

 

 

安政7年(1860年)、井伊直弼江戸城へ登城途中の桜田門外で水戸脱藩浪士らの襲撃を受けて暗殺される(桜田門外の変)。

事件が土佐に伝わると、下士の間で議論が沸き起こり尊王攘夷思想が土佐藩下士の主流となった。

同年、龍馬の朋友であり、親戚でもある武市半平太が、武者修行のために門人の岡田以蔵・久松喜代馬・島村外内らとともに土佐を出立した。

 

 

 

龍馬の脱藩は文久2年(1862年)のことで、当時既に脱藩していた沢村惣之丞や、那須信吾の助けを受けて土佐を抜け出した。

 


当時、脱藩者は藩内では罪人となり、さらに藩内に留まった家族友人も連座の罪に問われることになる。

 


龍馬は文久2年(1862年)に江戸に到着して小千葉道場に寄宿した。

この期間、龍馬は土佐藩の同志や長州の久坂玄瑞高杉晋作らと交流している。

 


その後、龍馬と千葉重太郎が開国論者の勝海舟を斬るために訪れたが、逆に世界情勢と海軍の必要性を説かれた龍馬が大いに感服し、己の固陋を恥じてその場で海舟の弟子になったという話である。

 


翌年には、幕府が姦吏の異人と内通し外国艦船の修理をしていることについて強い危機感を抱き「右申所の姦吏を一事に軍いたし打ち殺、日本を今一度洗濯いたし申し候」と述べている。

 


元治元年(1864年)、龍馬は生涯の伴侶となる楢崎龍(お龍)と出会い、のちに彼女を懇意にしていた寺田屋の女将・お登勢に預けている。

 


その頃、池田屋事件が起きており京都の情勢は大きく動いていた。

 


これらの動乱の最中に龍馬はお龍と内祝言を挙げている。

8月中旬ごろに龍馬は海舟の紹介を受けて薩摩の西郷隆盛に面会し、龍馬は海舟に対して西郷の印象を「少し叩けば少し響き、大きく叩けば大きく響く」と評している。

 


薩摩藩は彼らの航海術の専門知識を重視しており、慶応元年(1865年)に龍馬らに出資した(「亀山社中」)。

これは商業活動に従事する近代的な株式会社に類似した性格を持つ組織である。

 


慶応2年(1866年)京都屋敷において、桂小五郎西郷隆盛の会談が開かれた。

だが、話し合いは難航して容易に妥結しなかった。

 


それを知った龍馬が、慌てて下関から京都に入り間に入り話をまとめる。

これにより薩長両藩は後世薩長同盟と呼ばれることになる盟約を結んだ。龍馬はこの締結の場に列席している。

 


盟約成立から程ない頃、龍馬は護衛役の長府藩士・三吉慎蔵と投宿していた伏見寺田屋へ戻り祝杯を挙げた。

 


だがこのとき、伏見奉行が龍馬捕縛の準備を進めていた。

多数の捕り手が屋内に押し入り、龍馬は高杉晋作から贈られた拳銃を、三吉は長槍をもって応戦するが、多勢に無勢で龍馬は両手指を斬られ、両人は屋外に脱出した。

 


傷の治療で、温泉で休養をとるとともに左手の傷を治療した。

霧島山・日当山温泉・塩浸温泉・鹿児島などを巡ったこの旅は龍馬とお龍との蜜月旅行となり、これが日本最初の新婚旅行とされている。

 


慶応3年(1867年)薩摩側は西郷隆盛小松帯刀・大久保一蔵、土佐側からは坂本龍馬中岡慎太郎後藤象二郎・福岡孝弟・寺村左膳・真辺正心(栄三郎)が代表となり、船中八策に基づいた王政復古を目標となす薩土盟約が成立した。

 


その年、将軍・徳川慶喜は二条城で後藤を含む諸藩重臣大政奉還を諮問。

翌日に明治天皇に上奏。

 


同年、11月15日、龍馬は宿にしていた河原町蛸薬師で醤油商を営む近江屋新助宅母屋の二階にいた。

当日は陸援隊の中岡慎太郎土佐藩士の岡本健三郎、画家の淡海槐堂などの訪問を受けている。午後8時ごろ、龍馬と中岡が話していたところ、十津川郷士と名乗る男たち数人が来訪し面会を求めてきた。

従僕の藤吉が取り次いだところで、来訪者はそのまま二階に上がって藤吉を斬り、龍馬たちのいる部屋に押し入った。龍馬達は帯刀しておらず、龍馬はまず額を深く斬られ、その他数か所を斬られて、ほとんど即死に近い形で殺害された。

 


享年33(満31歳没)。

 


旧暦だが、龍馬の誕生日と命日が同じ日になってしまった。

 


もんちが尊敬する人物でもある。

 

 

 

本日が皆様にとって、人生最幸の一日になりますように😍

 

 

 

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