もんちの『今日は人生最幸の日』

もんちです 毎朝、その日の名言と、その日、お誕生日の有名人の紹介 などなど 日々の出来事も書きます 宜しくお願い致します

11月6日 今日を最幸の一日に

おはようございます!

 


大きな苦痛こそ

精神の最後の解放者である。

この苦痛のみが、

われわれを最後の深みに至らせる。

 

#ニーチェ

 

 

 

11月6日

 


今日は、『お見合い記念日』

 


1947年のこの日、東京の多摩川河畔で集団お見合いが開催された。

 


本日のお誕生日

 


服部良子さん、伊原剛志さん、宍戸瑠美さん、小田茜さん、窪塚俊介さん、Soweluさんなどなど

 


もんち的には熱い男、松岡修造さんのお誕生日

 


本日お誕生日の方々、おめでとうございます

㊗️㊗️㊗️㊗️㊗️

 

 

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松岡修造

 

 

 

東宝第11代社長となる実業家の松岡功と、元宝塚歌劇団星組男役スターであった千波静との間に三人姉弟の次男として生まれる。

 


父方の曾祖父は阪急電鉄宝塚歌劇団などの阪急東宝グループ創始者小林一三であり、親族に多くの実業家を持つ家系の中で育った。

 


父親の功は元テニス選手であり、甲南大学在籍時に全日本学生テニス選手権大会で単複優勝し、デビスカップ日本代表に選出された。

 


8歳の頃に兄弟の影響でテニスを始める。

 


始めた当初はポッチャリ体型だった。

 


慶應義塾中等部に進学する頃には勉学を優先していた兄とは対照的に中等部の校長から「テニスと学業の両立を図るように」と叱責を受けるほどテニスに毎日の時間の殆どを割き、中学2年生の時に全国中学生テニス選手権大会で優勝。

次第に頭角を現すようになる。

 

 

 

高校を編入してから2ヶ月後、松岡は「ウィンブルドンへの道」と題された国内ジュニア大会へ出場する。

この大会は当時世界で通用する日本の若手を育てるという目的で開催され、ここで活躍した選手の内4名をヨーロッパ遠征のメンバーに選出し、ウィンブルドン選手権全仏オープンのジュニア部門への出場チャンスを与えるというものであった。

 


この大会で松岡は当時全日本ジュニアランク1位の太田茂を破り優勝する。

本来であれば優勝者の松岡は当然メンバーに選出されるはずであったが、この海外遠征の期間がインターハイの予選期間と重なってしまった為、柳川のチームか自身を優先するか悩み、結局田島監督に相談した上で派遣を辞退する。

 


そうして臨んだインターハイではチームの期待に応えシングルス、ダブルス、団体戦の全てを制し三冠達成に貢献。

特に団体戦で優勝した事はそれまでは個人として勝つことしか知らなかった松岡にとって今までにない感動となり、仲間達と本当の喜びを分かち合うことが出来た。

 


翌年、「柳川高校を一年間休学し、また一年後に戻るという条件でウィンブルドンに行く!」と、ヨーロッパ遠征を選択する決断をし、同校を休学。

 


遠征を終えた松岡は東京に戻り、休学中の間毎日のように桜田倶楽部に通い詰め昔の仲間と練習を続けていた。

 


その後、世界的なコーチ、ボブ・ブレッドとの出会いからアメリカに行くことを決意する。

 


ブレッドから「腕試しにプロの試合に出てはどうか」とまたしても人生の転機となる言葉をかけられる。

 


ブレッドには「つまらない恐怖心を持つな!人間には思いもよらない能力がある。

5年間頑張ってみろ。

運がよけりゃシュウゾーは世界100位内に入る力がある」と松岡を力強く叱咤激励した。

 


実際の所自分の実力がテニス王国のアメリカでどの程度通用するのか試してみたい気持ちもあった松岡は、この提案に乗り本格的にプロ大会への出場を決意する。

 


軽い腕試しのつもりで出場した松岡であったが、予想に反し4週全ての大会で本戦に勝ち上がり5週目の大会にも進出。

 


その結果に驚いたブレッドは「シュウゾー、いっそのこと、大学に行かずにプロになってみれば?」と勧めた。

 


ブレッドの言葉を受けてプロにはなったものの、アジアからやって来た無名の選手でしか無かった松岡には、練習相手さえいなかった。

 


松岡は、強くなりたい一心で、空いてるコートを見つければ、他の選手が来るまで黙々と練習を続け、一人で壁打ちをしている選手を見かければ、良ければ自分の練習相手になってくれないかと必死の思いで頭を下げて願い出た。

 


この願いは、何度も断られ、時には侮蔑の目で拒絶されることすらあった。

しかし、それでもたまたま練習の同意を得たときは、松岡は、「お前のお陰で本番前の良い練習になったよ」と思われたいがために、いつも150%の力を出して練習に臨み、その質の高い練習が次第に周囲の評判となり、練習相手として受け入れられていった。

 


それがまた自身の練習にもなり、レベルも知らず知らずのうちに上がっていったのである。

 


ツアー下部大会を中心に転戦する生活を2年ほど続けていた。

 


1988年頃から本格的にツアーレベルの大会に出場するようになり、1月の全豪オープンで予選を勝ち上がりグランドスラムシングルス初出場を果たす。

 


その後の活躍により、シングルスランキングも年初の252位から年度末には82位と大幅に上昇していった。

 


こうして「世界に通用する日本人プレイヤー」として一躍注目を浴びるようになったのである。

 


しかし、1990年に転倒した際に左足首の3本の靭帯全てを断裂するという大怪我を負い選手生命さえ危ぶまれたがこれも諦めずリハビリを続け、1991年にはツアー復帰。

 


怪我明けながらこの年は好調で、2月のアメリカーナのチャレンジャー大会で優勝。

 


翌年には日本の男子選手として初のATPツアーシングルス優勝を達成。

 


その後の活躍により、ATPシングルスランキングで自己最高の46位を記録した。

 


この順位は2011年に錦織圭が更新するまで日本の男子選手が記録したシングルス最高位であった。

 


1995年ウィンブルドン選手権では、出場者に欠員が出たことにより、当初予選からの挑戦予定だった松岡に、本戦出場資格が回ってくる。

日本人の男子テニス選手として1933年の佐藤次郎以来62年ぶりのベスト8入りを果たす。

 


オリンピックにもソウル五輪バルセロナ五輪アトランタ五輪と3大会連続出場を果たした。

 


1998年2月に元テレビ東京アナウンサーの田口惠美子と結婚し、まもなくして30歳という若さで現役を引退した。

 


その後はテレビ出演が増え、現役テニス選手時代と少しも変わらない熱血ぶりを、テレビ解説を含む引退後の仕事でも披露している。

 


近時はその好感度からイメージキャラクターとしての人気が際立って高く、2008年のCM起用ランキングでは木村拓哉と並ぶ男性1位に輝いた。

 


今後も熱い解説を期待してます。

 

 

 

本日が皆様にとって、人生最幸の一日になりますように😍

 


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#11月6日