おはようございます!
普通と言われる人生を送る人間なんて、
一人としていやしない。
いたらお目にかかりたいものだ。
11月3日
今日は、『文化の日』
1946年のこの日、平和と文化を重視した日本国憲法が公布されたことを記念して国民の祝日に定められた
本日のお誕生日
小林旭さん、高田明さん、柄本明さん、堤幸彦さん、向井亜紀さん、原田あきまささん、武幸四郎さん、錦戸亮さんなどなど
もんち的には、虫大好きの手塚治虫さんのお誕生日
本日お誕生日の方々、おめでとうございます
㊗️㊗️㊗️㊗️㊗️
本名、手塚治。
1928年、大阪の豊中市に生まれる。
小学校3年の時に、最初の漫画「ピンピン生チャン」を完成させると、その後漫画の練習に取り組み、小学5年生の頃には長編漫画「支那の夜」を完成。
同作品は、仲間内のみならず学校の教師の間でも話題になるほどであり、以後教師からも漫画を描くことを黙認されるようになったという。
漫画を描くことでクラスからも一目置かれ、また漫画目当てにいじめっ子も手塚の家に訪れるようになるなどして次第にいじめはなくなった。
誕生日には家に20人もの友人が集まるほどになっていた。
友人が家に来ると、当時としては珍しく紅茶と菓子でもてなされ、治の誕生日には五目寿司や茶碗蒸しが振舞われた。
この当時に描いた漫画の一部は今でも記念館に保存されている。
この時期に、同級生の影響を受けて昆虫や科学、天文学に興味を持つようになる。
手塚家の広い庭は昆虫の宝庫であり、また周囲の田園地帯にも虫が豊富にいて、昆虫採集には最適の環境だったことから、趣味に対し深みを持たせた。
友人から借りた平山修次郎『原色千種昆蟲図譜』を読み、甲虫のオサムシの存在を知り、それにちなみ、この時期からペンネームとして「手塚治虫」を使い始めた。1950年頃までは、「治虫」はそのまま「おさむし」と読ませていた。
大阪帝国大学附属医学専門部在学中の1946年に4コマ漫画『マアチャンの日記帳』で漫画家としてデビュー。
漫画執筆が忙しくなると大学の単位取得が難しくなり、手塚は医業と漫画との掛け持ちは諦めざるを得なくなった。
教授からも医者になるよりも漫画家になるようにと忠告され、また母の後押しもあって、手塚は専業漫画家となることを決める。
1947年、酒井七馬原案の描き下ろし単行本『新寶島』がベストセラーとなり、大阪に赤本ブームを引き起こす。
1950年より漫画雑誌に登場、『鉄腕アトム』『ジャングル大帝』『リボンの騎士』といったヒット作を次々と手がけた。
1963年、自作をもとに日本初となる30分枠のテレビアニメシリーズ『鉄腕アトム』を制作、現代につながる日本のテレビアニメ制作に多大な影響を及ぼした。
1970年代には『ブラック・ジャック』『三つ目がとおる』『ブッダ』などのヒット作を発表。また晩年にも『陽だまりの樹』『アドルフに告ぐ』など青年漫画においても傑作を生み出す。
デビューから1989年の死去まで第一線で作品を発表し続け、存命中から「マンガの神様」と評された。
1989年死去。
死に立ち会った松谷によるとこの「頼むから仕事をさせてくれ」が手塚の最後の言葉であったという。
代表作
『新寶島』
『ジャングル大帝』
『鉄腕アトム』
『リボンの騎士』
『火の鳥』
『どろろ』
『ブラック・ジャック』
『三つ目がとおる』
他多数
沢山の漫画家に影響を与えた、正にマンガの神様であった。
本日が皆様にとって、人生最幸の一日になりますように😍
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