もんちの『今日は人生最幸の日』

もんちです 毎朝、その日の名言と、その日、お誕生日の有名人の紹介 などなど 日々の出来事も書きます 宜しくお願い致します

12月17日 今日は人生最幸の日

おはようございます!

 


涙で目が洗えるほどたくさん泣いた女は、

視野が広くなるの。

 

#ドロシー・ディックス

 

 

 

12月17日

 


今日は、『飛行機の日

 


1903年のこの日、アメリカでライト兄弟が動力飛行機の初飛行に成功した

 


本日のお誕生日

 


夏目雅子さん、仮屋崎省吾さん、TARAKOさん、芹沢直美さん、本村健太郎さん、有森裕子さん、西村知美さん、牧瀬里穂さん、佐々木恭子さん、ミラ・ジョヴォヴィッチさん、福田明日香さんなどなど

 


もんち的には、三蔵法師夏目雅子さんのお誕生日

 


本日お誕生日の方々、おめでとうございます

㊗️㊗️㊗️㊗️㊗️

 

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夏目雅子

 


本名、西山 雅子(にしやま まさこ)。

旧姓、小達 雅子(おだて まさこ)。

 


27歳の若さでお亡くなりになられた

 

 

六本木2丁目の輸入雑貨店・亀甲屋の子として生まれる。

亀甲屋は実際は荒物、金物、石鹸、亀の子たわしなどを扱う日用品雑貨の店だが、芸能界デビュー後は貿易会社社長の娘などと変更された。

 


小学3年生のときにテレビドラマ「チャコちゃんハーイ!」を見て女優を志す。だが子役願望は母親に猛反対されかなわず、17歳のときに、ソフィア・ローレンに憧れ本格的に女優を目指すようになった。

 


『愛が見えますか…』のオーディションで486人の応募者の中から盲目のヒロイン役に選ばれ、本名(小達雅子)で女優デビューした。

 


この時の演技は57回連続NGを出され、「お嬢さん芸」と言われたほど拙いものであった。

周囲から“お嬢さん”と見られることは後々まで彼女のコンプレックスであった。

 

 

 

1977年、カネボウ化粧品キャンペーンガールとなり、「クッキーフェイス」のCMで注目を集めた。

 


この時、夏の注目の目玉商品になることで、芸名を本名の小達雅子から夏目雅子へと改名する。

 


夏の目玉の雅子で『夏目雅子』なんですね。

面白いですね。

 


CMの使用楽曲「Oh!クッキーフェイス」を自ら日本語でカバーし、シングルレコードをリリース。

歌手としてもデビューした。

ブレイクのきっかけを作ったこのときのCMディレクターが後の直木賞作家で夫の伊集院静であった。

 


同年、『トラック野郎・男一匹桃次郎』にはマドンナの小早川雅子役に抜擢され、映画初出演を果たした。

 

 

 

1978年、『西遊記』で三蔵法師役を演じて人気を得る。

 


ドラマ自体も好評で、この番組によって人気が高まり、バラエティー番組などのタレントとしての出演が増えた。

 

 

 

1980年、ドラマ『サンキュー先生』(テレビ朝日系列)の1話で、いじめられっ子の姉役に特別出演。

 


プロデューサー久世光彦からこれからの女優として推薦され、ドラマ『虹子の冒険』で初主演。

 


同様に夏目の女優としての将来性を見抜いた演出家和田勉によって『ザ・商社』のヒロインとして大抜擢された。

このドラマはNHKの制作だが、上半身裸のヌードシーンがあった。

これらドラマでの迫真の演技により女優としての評価を高め、「お嬢さん女優」のイメージを覆すことに成功した。

 


さらにこの年は映画『二百三高地』にも出演。

 


1982年、『鬼龍院花子の生涯』の台詞「なめたらいかんぜよ!」が流行語となる。

 


この映画では、当初彼女のヌードシーンはスタントを立てる予定であったが、「他の出演者の女優さんが何人か脱いでいるのに、自分だけ脱がないのはおかしい。私も脱いで演技します」と本人が希望した。

 


そのため事務所の大反対を受けたが、説得に説得を重ね、本人がヌードになった。

 


迫真の演技が話題になりこの作品でブルーリボン賞獲得。

演技派女優としての地位を確立したが、授賞式では「これからもお嬢さん芸でがんばりたいと思います」とスピーチした。

 

 

 

1984年、不倫していた作家伊集院静と結婚。

 

 

 

1985年、舞台の公演の最中、10円玉大の口内炎が出来、さらに激しい頭痛など極度の体調不良を訴える。

それでも泣きながら「這ってでも舞台に戻る!」と、頑なに出演続行を望む夏目本人を何とか説得して、共演の西岡徳馬の勧めにより緊急入院した。

 


急性骨髄性白血病と診断されたが、夏目本人には「極度の貧血」とだけ告げ、本当の病名を伏せていた。

夏目の入院と共に夫の伊集院は、仕事をすべて辞めて彼女が亡くなるまで母親らと共に看病にあたった。

 


その後、約7ヶ月に渡る闘病生活を送りながらも順調に回復し、退院間近の報道もあった矢先であったが、8月下旬から抗がん剤の副作用が原因とみられる肺炎を併発。

高熱が続き、9月8日に熱が一時的に引いたが、翌9日から再び高熱を発して、意識不明の重体になり、1985年9月11日逝去。

 


27歳没。

 

 

 

夏目雅子の闘病生活では、白血病抗がん剤の副作用による脱毛に、本人も家族も悩み、精神的苦痛を味わった。

 


しかし母の前では「髪の毛くらい、いいわ。私、三蔵法師の時とっても素敵だったのよ」と気丈に言ったという。

 


1回目、2回目の化学療法で、脱毛を恐れて副作用の弱い薬を選び、積極的な治療を行わなかったことが、死につながったとの母小達スエの強い後悔の念から、癌患者の闘病生活(特に脱毛の恐怖や、頭髪が抜けた後の患者の頭皮の負傷など)、寛解後の社会復帰を支援したいと、母スエを代表として小達一雄を中心に、彼女の遺産をもとにして、癌患者へ無料でかつらを貸し出す組織、『夏目雅子ひまわり基金』が、1993年12月に設立された。

 


本当にお綺麗で、もんち的には三蔵法師のイメージが強いですね。

 


生きておられたらきっと、まだまだテレビで活躍されてたんでしょうね。

 

 

 

本日が皆様にとって、人生最幸の一日になりますように😍

 

 

 

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