もんちの『今日は人生最幸の日』

もんちです 毎朝、その日の名言と、その日、お誕生日の有名人の紹介 などなど 日々の出来事も書きます 宜しくお願い致します

3月8日 毎日が記念日

おはようございます!

 


きみはあなた自身を創造していると思いなさい。

 


#岡本太郎

 


3月8日

 


今日は、『国際女性の日』

 


国際的な婦人解放の記念日。

 


1904年のこの日、ニューヨークの女性労働者が参政権を求めて集会を開いた

 


本日のお誕生日

 


水木しげるさん、高木ブーさん、宮尾すすむさん、はらたいらさん、篠ひろ子さん、しげの秀一さん、江川達也さん、平松愛理さん、桜樹ルイさん、桜井和寿さん、須藤元気さん、水野裕子さんなどなど

 


もんち的には、ゲゲゲの鬼太郎水木しげるさんのお誕生日

 


本日お誕生日の方々、おめでとうございます

㊗️㊗️㊗️㊗️㊗️

 

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水木しげる

 


本名は武良 茂(むら しげる)。

 


1922年に大阪で生まれ、鳥取県境港市で育つ。

 


幼少時、まかない婦として家に出入りしていた景山ふさ(のんのんばあ)が語り聞かせた妖怪の話に強い影響を受ける。

 


比較的に恵まれた環境で育つが学校の勉強はできる方ではなく、両親が尋常小学校入学を1年遅らせたほどだった。

 


一歳年上で体格が大きかった為に腕っ節は強く、明るい性格もあってガキ大将として君臨した。

 


高等小学校時代、図画の成績は良く、小学校の教頭の勧めで公民館で授業で描いた絵の展覧会が開かれ、新聞に掲載されたこともあった。

 


しかし、高等小学校卒業後も旧制中学校には進めず、社会に出て働き先を探す為に故郷を離れる事になった。

 


しかし、仕事が出来ず、2度会社を解雇され帰郷する事にした。

 


帰郷後、息子に労働は向いていないと思った父親は好きな道(絵の勉強)に進ませる事にした。

 


父親の転勤で京都の篠山にいた18歳の頃、山中の祠で、神社で不心得者や悪戯をする者を見つけると突然上から落ちてきて脅かす妖怪『おとろし』らしきものに出遭ったことがあるという。

 


太平洋戦争が始まり、20歳になった水木は徴兵検査を受け、結果は体は頑健ながら近眼により乙種合格で、補充兵役に編入され現役入営(入隊)はしなかった。

 


しかし、ここでも軍隊生活に馴染むことができず、南方のニューブリテンラバウル行きが決定した。

上官から目を付けられていた水木には「ビンタの王様」というあだ名がついたくらい、毎日のようにビンタされていたらしい。

 


その後、帰還してまもなく行軍中に風邪を引いた際にマラリアを発症、高熱で錯乱状態に陥ってジャングルを彷徨い歩き、危うく行方不明になりそうにもなった。

 


追い討ちをかけるように療養中に敵機の爆撃で左腕に重傷を負い、軍医によって麻酔のない状態で左腕切断手術を受けるなど、再び半死半生の状態に追い込まれた。

 


その後、戦争が終わり、1946年に日本に帰国した。

 


水木は配給制において政府の許可制である魚屋の資格を申請して転職した。

予め契約を取った家庭に魚を届ける形式で、ようやく復員後の生活が安定するようになった。

 


復員後の道が定まらない状況を過ごしていたが、神戸市で滞在した安宿の主人から「この建物をアパートとして買ってもらえんやろか」と購入を持ちかけられた。

格安の値段であったので購入を決意し、資金をかき集め、足りない分は父に借金して代金を調達した。

このアパートが神戸市兵庫区水木通にあった事から「水木荘」と名付け、大家業を始めた。

 


大家業が中々軌道に乗らず副業を探していた所、29歳の時に紙芝居作家の弟子をしているという青年がアパートに入居した。

 


その青年から紹介してもらった紙芝居の貸元に手製の紙芝居を持ち込んで回った。

 


その後、1958年、貸本漫画『ロケットマン』で貸本漫画家としてデビュー。

 


1960年、兎月書房から『墓場鬼太郎』シリーズの執筆を開始し、第一作となる「幽霊一家」が貸本雑誌『妖奇伝』に掲載された。

後年の鬼太郎とは全く違う、紙芝居時代に近い陰鬱な怪奇物に仕上げ、当初は全く売れず『妖奇伝』も第2号で打ち切りとなった。

 


だが打ち切り後に一部の読者から熱心な連載再開を要望する手紙が届き、倒産間際だった兎月書房は最後の希望を託して『墓場鬼太郎』シリーズの刊行を継続した。

 


これが人気作となり、徐々に水木しげるの名が知られていく契機となった。

 


「子ども向けのかわいい絵柄」に変えるのに苦労するが、『別冊少年マガジン』に掲載した『テレビくん』が第4回講談社児童漫画賞を受賞し、45歳にして人気作家の仲間入りを果たした。

 


水木の作品の影響で、漫画、TV、映画の世界は一大妖怪ブームとなる。

また民俗学での専門用語だった「妖怪」が、一般に伝わる経緯ともなった。

 


1993年、縁の深い鳥取県境港市の町おこしに協力し、水木しげるロードの建設が開始され、2003年に水木しげる記念館の開館によって完成した。

同地は鳥取県における観光名所として発展している。

 


2010年には、妻・布枝の著書『ゲゲゲの女房』がNHK連続テレビ小説としてテレビドラマ化、および映画化されるなど改めて水木の人生に注目が集まった。

 


2015年自宅で転倒して頭部を強く打ち、硬膜下血腫を治療する為に緊急手術を受け、入院治療中で、頭部打撲は回復したものの、容体が急変し、死去した。

93歳没。

 


子供の頃は鬼太郎の漫画が怖かった覚えがありますね。

 

 

 

本日が皆様にとって、人生最幸の一日になりますように😍

 


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