おはようございます!
とにかく、
とりかかれば心が燃え上がるし
続けていれば仕事は完成する
#ゲーテ
5月20日
今日は、『世界計量記念日』
フランス政府の提唱により「メートル条約」が締結された
長さや質量の単位が決まった日
本日のお誕生日
相田みつをさん、王貞治さん、益子直美さん、河村隆一さん、光浦靖子さん、永井大さんなどなど
1940年5月10日に二卵性双生児の弟として出生したが、戸籍上の出生日は5月20日である。
実際の出生日と戸籍上の出生日が異なる理由は、両親がこの子は長く持ちそうにないと出生届の提出を見合わせていたからだそう。
実際、3歳まで歩く事もおぼつかないほど、身体が弱かったらしい。
小学生の頃、当時の横綱・吉葉山から「相撲取りになりなさい」と勧められるほど相撲が強かったらしい。
中学校では陸上部と卓球部に在籍したことがある。
野球部にも在籍していたが、グラウンドが使えなかったために休部同然の状態であった。
野球との出会いは、まだ子どもの頃の神社の境内や路地での草野球であり、本格的に野球を始めたのは兄が慶応義塾大学医学部に入学し野球部に入ったことで、その兄に連れられて野球部の合宿に行ったことから、小学校4年生でクラス仲間とチームを作ったらしい。
中学生になり、地元の町工場のおやじさんが作った高校生主体の野球クラブで自分よりも年上の大きな上級生にもまれながら活動していた。
早稲田実業高校に入学してすぐに野球部に入った。
その頃、ピッチャーとして活躍していた王は、第39回全国高等学校野球選手権大会で、2回戦の寝屋川高校戦で延長11回を完投し、ノーヒットノーランを達成。
延長戦でのノーヒットノーラン達成は、甲子園では春夏を通じて唯一の記録である。
後年、王は「高校2年の頃が投手としてピークだったと思う。
この後バッティングは良くなっていったけど、ピッチングはどこかおかしくなっていった」と語っている。
その後巨人軍に入りデビューする。
しかし、デビューして10試合無安打が続き、26打席無安打となった。それでも水原監督は王を起用し続けた。
そして4月26日後楽園球場での国鉄との6回戦(ダブルヘッダー第2試合)で0対0で迎えた7回表二死、敵失で出塁した坂崎一彦を一塁に置いて王に第3打席が巡ってきた。
王は国鉄村田元一投手が2ストライク1ボールからの4球目に投じた内角低めのカーブをすくい上げると、打球はライトスタンド最前列に落ち公式戦初安打が決勝2ランホームラン(出場11試合目)となった。
これが王の記念すべき第1号本塁打となった。
しかし、その後は大きな活躍もなく、特に目立ったのが72を数えた三振の多さで(2.7打数に1三振に相当)、「王は王でも三振王」などと野次られるなど、後に本塁打王と呼ばれるとは思えない成績だった。
その後コーチとバッティングフォームを試行錯誤していった。
その時に産まれたのが『一本足打法』である。
海外では『フラミンゴ打法』と呼ばれている。
翌年1963年、シーズンの最初から一本足打法で打ちまくり、長嶋とのコンビが「ON砲」と呼ばれ始め、この巨人の二枚看板の大活躍でこのシーズンは2年ぶりにリーグ優勝と日本シリーズの優勝を果たした。
王はこの年初めて打率3割・本塁打40本を記録した。
翌年にはプロ野球記録である年間ホームラン数、55本を記録した。
この記録は、後に松井秀喜が読売ジャイアンツに入団した時に巨人監督に復帰したばかりの長嶋茂雄が、松井の背番号を55としたが、それはこの数字を目標とする打者になることに由来していた。
引退するまでに、868本のホームランを打ち、国民栄誉賞を授与されている。
本日が皆様にとって、人生最幸の一日になりますように〜😍
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